Unlock yourself. 自分を”アンロック”せよ

津波から奇跡的に生還した”禅僧”の「自分をアンロック」するブログ。

自分の「慈悲」を恐れるな。

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ガソリンスタンドへの伝言

先日、いつも給油するガソリンスタンド(GS)に立ち寄ったときのこと。GSの若い男の子が私の顔を見るなり、ちょっと驚いた顔をしてこう言った。

「あ、おしょさんこの前、だれかおばさん助けませんでした?

 うちのお客さんでね、この前このクルマ(私の)に乗ったおしょさんに

 助けてもらった〜って言ってたんです。あ〜そのおしょさんうちのGS来ますよって

 言ったら、お礼言っといて〜って頼まれました!」

 

私は実は身に覚えがなかったんだけれど、(彼は私がそのおばちゃんをいつ、どんな風に助けたかは覚えていなかった…。)まあ、何かしら困ってそうな人に出会ったらちょっと手を貸すぐらいのことはするだろうなと思って、そっかそっか、おばちゃんによろしく伝えてね〜と彼に言った。すると彼は妙にキラキラした目で私を見て、

「おしょさんスバラシイっす!人助けって、なかなかできることでないッス!」

と、やたらと感心しきりにフロントガラスを拭いてくれた。

 

そうかな?

 

とにかく、この20代前半と思われる若い子にこんな風に感心してもらうなんて…妙な照れくささを感じながらも悪い気はしなかった。むしろ、親切ってしとくもんだなと、その”タナボタ"の甘いお味を味わっていた。

でも、人助けってそんなに難しいことではないよな…と、その妙な照れくささの正体にどことなく居心地の悪さを感じていた。

 

六年前のあの日

今、ふたりの友人と、東日本大震災の七回忌法要を計画している。全国のお寺で、同時多発的に同じ想いの人たちが集う場を作ろうと、知恵を絞りあい出し合っている。そのうちの一人の友人Sさんが、ふとこんなことを漏らした。

「6年前のあの震災の後、何にもできなかった…と思ってるんです。結構、そういう人多いと思います。そういう人たちに、今なら”何かできる”そんな場を作ってあげたいんです。」

うん。

そうだよね。

私も何もできなかった。

 (参考:過去記事)

satoryoki.hatenablog.com

何者でもない者

自分自身、津波の生存者である私は、募金・救援物資・情報拡散・ボランティア…できることはしてたつもりだけど、それが十分だったとはとても思えない。あの巨大な不条理の直後だもの。何をしたって”足りる”とは思えないじゃないか。私は無力だった。何者でもなかった。政治家でもビリオネアでも人気アーティストでもない。どっちみちあの状況では、どんな名のある人だって、無力さに立ち尽く下だろう。でも私は、何者でもなかったとしても、少なくても”突き動かされた”衝動を信じて、できることをしてたとは思う。

 (参考:過去記事)

satoryoki.hatenablog.com

胸の奥の”細胞のシグナル”

私たちは自分の中に立ち上がる衝動としての「慈悲」に、何度も何度も突き動かされている。でももしかしたら、自分はその”大きな慈悲に値しない”と尻込みして、例えば人を助けることを躊躇しているのだ。

 

私たちの胸の奥に疼く”細胞たちのシグナル”は

こう発してはいないだろうか。

 

 困った人を助けたい。

 泣いている人を笑わせたい。

 持たない人に与えたい。

 この街を元気にしたい。

 

 世界を、変えたい。

 

そしてそれに自分の”理性とやら”が、

こう応えてはいないだろうか。。

 

 私なんか…

 私のようなものが…

 私ごときが…

 

私たちを突き動かす”細胞のシグナル”、それは

想像を大きく超える「慈悲」の存在を証している。

 

何者でなくてもいい。

 

その慈悲を恐れずに、使ってしまえばいい。

突き動かされるままに、生きてしまえばいい。

自分の「慈悲」を一番恐れているのは、自分だ。

 

自分の「慈悲」を、恐れるな。

 

使っちゃえ!

 

Unlock yourself.

Unlock your compassion.

 

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  【 佐藤良規・コンテンツ 】

「藤田一照”仏教で人生はもっと面白い?!”」

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「医療も葬儀もいらない」

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父が、大好きだった。-Vol.2-

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仏頂面

私にとって父は、厳しくてけして愛想のいい人ではありませんでした。そう、思い込んでいました。どちらかと言えば、仏頂面の人だったと記憶しています。でも、改めて思い出してみると、どうもそうでもないんです。

夜の本堂で遊んだことや、父の背中に馬乗りになったこと。高速自動車道のSAでたべたすごく美味しいソフトクリーム。冬タイヤを交換に行ったタイヤショップの窓から眺める街。父が買ってくれたババロアをプリンがよかったのにと怒る幼い私。褪せたブルーのツナギにタオルを巻いて草刈りする朝。金曜ロードショウの宇宙戦艦ヤマトは、父のススメで電気を消して観ました。4トントラックを運転したときのドヤ顔。思い出の中の父は、意外とよく笑っています。そして私も、一緒に笑っています。そういえばくだらないダジャレにも付き合わされたっけ。そして、メガネを外すと、濃い眉毛と小さな目がいつもより自信なさげに見えました。

 

そうです。

 

私は、父が大好きでした。

 

 (参考:過去記事)

satoryoki.hatenablog.com

 特別な瞬間は、どこにあるのか

父は勤めており、どちらかと言えば忙しい人でした。私たちが慌ただしく学校へ行く朝は気難しい顔をして新聞を読んでおり、夜、帰宅するのはいつも10時過ぎではなかったでしょうか。思春期や反抗期も重なって、中学になってからはほとんど父と話すこともなくなりました。だからこそ、小さいときの父との日常の楽しい出来事が、私にとって本当に特別な、大切な思い出だったのです。そうです。いつも父と出かけるときはすごく特別な気がして嬉しかった…。不思議なものです。思い出すのは本当に日常的なことばかり。「遊園地に行った」「旅行に行った」そんなイベント的なことではなく、まるで”6月18日木曜日の夜”、のような何でもない一日の、何でもないひととき。それがどうにも愛おしくってたまらないのです。

 

父から教わったことは全て

父の突然の死は、私にとって悲しむべき出来事でした。しかし父の死についての事務手続きや、葬儀の準備などに追われながら、すこし不思議な感覚に気づいてきました。それは、私が父の死をそれほど悲しんではいない、ということです。

私は当時29歳です。十分に大人です。父が他界してもそれほど文句は言えない年齢です。そして不思議なことに、”父に教わることは全て教わった”という確信に近い感覚が、どうやら私にあることに気づきました。父に教わることは全て教わった。だから父に聞きたいことは自分に聞けばいい。私の中に、父はいつでもいるのだから、と。

これは今でも変わらず感じています。正直、たとえば父と「人生について話した」ことは殆どありません。父と暮らしたのは15歳までで、12歳からはほとんど会話もしていません。それでも、父に教わることは全て教わったと、そう思えてならないんです。

 

でもそれが今になってふと、少し寂しく感じるようになったんです。父と話してみたい。父に孫を見せてみたい。

父に、もういちど会いたいな…と。

素直

私は嬉しかったんです。私が、父を大好きだったってことを思い出せて。なぜか私は、父の記憶を厳しいものや乗り越えるものとして遠ざけていたのです。確かに、怒ると怖かったし、叱られるのは嫌だった。タバコの煙も嫌いだったし、背中のニキビを潰させられるのもゴメンです。

でも、父の帰りが待ち遠しかった。日曜日にふと「ちょっとでかけようか?」と誘われるのが何より嬉しかった。父とふたり、父の車の助手席に乗って出かける特別感は素敵だった。

よかった。

私は父が大好きでした。

それが思い出せて本当に良かった。思い出せるほど、素直になれてよかった。

すみません。

この記事はきっと、父が大好きだと言いたいがために、書いただけなのでしょう。

 

私は、父が大好きだった。

 

大好きだよ、お父さん。

 

Unlock yourself.

Unlock your childhood.

 

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父が、大好きだった。-Vol.1-

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まさかこんなに早く

私たちは葬儀などいわゆる仏事を通じて、多くの喪主・遺族に出会います。亡くなった方がたとえ85歳であろうと92歳であろうと殆どの場合、ご家族はこう言います。

「まさかこんなに早く逝ってしまうとは思わなかったんです…。」と。誰にとっても親や祖父母はずっと生き続けてほしいもの。まさかこんなに早く…と思うのも無理はないのです。

ですが…。

私はいつも心のなかでつい、こんな返歌を詠んでしまいます。

「そんなに早くないじゃん、平均寿命も過ぎてるじゃないですか…。」と。

 

そんなに父親が長生きしてくれるなんて、私には、羨ましい。

 

長男の宿命

私の父は1月7日の朝、庭先で急に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。55歳でした。幸いにもお墓参りに来た方が発見し通報してくれたので、父は倒れて間もなく救急車で病院へ運ばれました。しかし、私が病院に着いたときには救急救命士の方が滝のような汗を流しながら心臓マッサージをしてるところでした。聞けば、もう心臓マッサージをはじめて1時間近く経つとのこと。私は突然の出来事に心底驚きつつも、妙に冷めた頭で、きっとこれは助からないんだろうという確信めいたものを感じました。

 

無機的な病室の、”ベッド”とも呼べないような鈍色の台座。少しずつ私達から遠ざかり、透き通っていくような父の身体にしがみつき、母と妹は「頑張って」と泣きじゃくっていました。

私は隣で居心地悪そうに立ち尽くしている医師に、正直どうなんでしょうと尋ねると、もうむずかしいでしょう…と、やりきれなさを押し殺しでも十分私を気遣いながら、小さく呟いてくれました。私はその優しさに少しの勇気をもらい、世界中の”長男の宿命”を一身に背負ったような心持ちで、「もう、結構です。」と医師に伝えました。そしてそれは、続けていれば蘇生の可能性を僅かに繋いでくれている心臓マッサージをやめることを意味しました。

それは正月も明け切らない、七草粥の日の朝でした。

 

七草粥と変わらぬ世界

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唐の楚国に、大しうという親孝行者がいた。
両親はもう百歳を越し体がままならず、そんな両親を嘆き悲しんだ大しうは、
山に入って21日間もの苦行を行い祈願した。
「私に老いを移してもいいのでどうか両親を若返らせてください」
そこに天上の帝釈天からお告げがあった。
「そなたの願いを聞き入れた。須弥山の南に齢8000年の白鵞鳥がいるが、
 この秘術をぬしら親子に授ける。ついては、
  • 毎年春のはじめに七種の草を食べること。
  • 1月6日までに7種類の草の集めておくこと。
  • 次の時刻に柳で作った器に種を載せ、玉椿の枝で叩くこと。
  • の刻からこれらの種を合わせ、東から清水を汲んできて、これを煮て食べること。
一口で10歳、七口で70歳若返るので、ついには8000年生きることができよう。」
大しうはこの教えを繰り返し暗唱すると、この日は正月であったので
すぐに山を降りて7種類の草を集め、6日の夕方から教えの通り、
不思議な心持ちで夜通し草を叩いた。
朝になり、東から汲んだ水で炊いて両親に食べさせたところ、
たちまち若返ったのはいうまでもない。
これが世に伝わり、噂を聞いた当時の帝はこの親孝行に感動して位を譲った。[1]

すなわち、七草の由来とともに、ここでは親孝行の功徳を説いた話だったのである[2]

==========     (wikipedeliaより)

 

皮肉にもその日は、親の長寿を願い、親孝行の功徳を詰むべきとされる七草粥の日。私はその日、七草粥を食べたかどうかも覚えていません。ただ、世界がいつもと変わらず廻り続けていることに、どうしようもない違和感があったことだけ、妙にはっきりと覚えていました。

 

(参考:過去記事)

satoryoki.hatenablog.com

 

( vol.2へ続く…)

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