聞かせてほしいのは、あなたの旋律なのだ
格好のいいお坊さん、わるいお坊さん
印象的な、2つの現場に居合わせた。ひとつはある「格好のいいお坊さん」。ある若い僧侶の法話。これはしんどかった。若いが経験値の高い、彼。挨拶から法話の内容まですべてあるフォーマットに則ったお話の組み立てでまったくもって卒がなく、隙きもない。完成度(もし、そういう基準があるとすれば)は、高いのだろう。「仏教の智慧」はバランスよく散りばめられ、あらゆる聴衆に差し障りなく、配慮もしてある。感情の抑揚さえ、アンダーコントロール。いうなれば、「格好がいい」。でも、ひとつ問題があるとすればそれは、全く心に響かないのだ。(批判が趣旨ではありません。)
もう一つは、「格好のわるいお坊さん」。私がお手伝いしているお寺の葬儀。80を過ぎた方丈さま(禅宗では住職のことを方丈さまと呼ぶ)は足腰が不調で、葬儀もなんとか気を張ってお勤めしてらっしゃる。その姿だけでもある"尊さ”を感じるが、でもその日の葬儀はちょっといつも違った。葬儀がつつがなく終わり、いつもなら会場である本堂から出てゆくタイミングで、方丈さまは杖をつきながら故人(Tさん)の祭壇の前へゆっくり進んだ。私も、会葬者のだれもが予期せぬ成り行きを戸惑いの面持ちで見守っていた。
そして…
「Tさん、あなたは本当に気持ちのよい人でした。
私にいつも優しい言葉をかけてくれた。
あなたのそのやさしさに私はいつも救われていました。
ありがとう、Tさん。
ありがとう…」
方丈さまはぽろぽろとこぼれる涙を恥じることもなく、止むに止まれぬといった切実さで、故人への想いをたどたどしく紡いでいた。ご家族はもちろんのこと、成り行きを見守っていた会葬者の多くの方が涙を拭っていた。
(参考:過去記事)
島唄
私の人生を変えた歌の1つ、「島唄(The Boom)」。忘れもしない、1992年初夏のある夜、「島唄」は私のアパートの14インチのテレビから流れ出してきた。二十歳の私は引き込まれるようにテレビの前に座り、その旋律に聞き入っていた。テレビ用にショートカットしてあったであろう「島唄」が終わるころ、私はわけもわからず嗚咽を抑え切れず、号泣する自分に困惑していた。リサイクルショップで買った14インチの安テレビ。そのテレビ越しに、「島唄」は私を号泣させた…。
東京出身の宮沢和史さんが、沖縄戦を題材にした「島唄」を東京で書き上げ、発表したのは1992年。当初は沖縄民謡に関わる人たちになどに「沖縄音楽の真似事」などと手ひどく批判されたそうだ。でも2017年の今日、どれほど「島唄」が人の心を揺さぶり、どれほど多くの人に響き、どれほど愛されたかを疑う人はいない。皮肉にも「島唄」は現在では沖縄の人たちにも愛され、沖縄音楽、琉球民謡が世間にその価値を認められるご縁にもなった。沖縄音楽界のレジェンド、喜納昌吉さんは「『島唄』を単なる沖縄音楽の真似事、と批判する者もあるが)音楽において、『魂』までコピーすれば、それはもうコピーなんかじゃないんだ」と語り、宮沢さんは大いに励まされたというエピソードが残っている。
止むに止まれぬ想い
もう少し「島唄」の話。宮沢さんは沖縄戦への怒りと、それまで沖縄戦についてあまりにも無知だった自分への憤りなどが「島唄」を書かせた、と語っている。結果的に、この「島唄」を聞いてしまった私は後日、不思議な縁に導かれ沖縄の地を踏むことになる。そして宮沢さんが感じたであろう怒りや憤りを、ひめゆりの塔、摩文仁の丘、そして出会う沖縄の人たちを通じて体験することになる。宮沢さんが「島唄」を書いた理由が、もしくは書かざるを得なかったやるせなさが、その止むに止まれぬ想いが、あの旋律には響いてる。
(参考:過去記事)
旋律が私を奏でる
祭壇の前で泣いた方丈さまの震える声は、その場にいた多くの人たちの心の弦を爪弾いた。宮沢さんの書いた「真似事」の歌は、世界中の人に愛され、今もどこかで歌われ続けている。
格好も関係ない。真似事だろうと関係ない。年齢も性別も職業も社会的地位も年収も関係ない。その人がどんな人なのかも関係ないのかもしれない。その人が、止むに止まれぬ思いに突き動かされて放つ旋律が、私たちを響かせるのだ。その旋律がどんな響きなのか、自分自身にもわかりはしない。聞いた人だけがそれを証明してくれる。
自分の旋律を奏でるのに、誰への遠慮も要らない。音楽であれ、言葉であれ、作品であれ、自分の旋律に耳を澄ませ、旋律に自分を奏でさせるだけでいい。その旋律に響き合う誰かがきっといる。
世界が聞かせてほしいのは、あなたの旋律なのだ。
Unlock yourself.
Unlock your melody.
自分の「慈悲」を恐れるな。
ガソリンスタンドへの伝言
先日、いつも給油するガソリンスタンド(GS)に立ち寄ったときのこと。GSの若い男の子が私の顔を見るなり、ちょっと驚いた顔をしてこう言った。
「あ、おしょさんこの前、だれかおばさん助けませんでした?
うちのお客さんでね、この前このクルマ(私の)に乗ったおしょさんに
助けてもらった〜って言ってたんです。あ〜そのおしょさんうちのGS来ますよって
言ったら、お礼言っといて〜って頼まれました!」
私は実は身に覚えがなかったんだけれど、(彼は私がそのおばちゃんをいつ、どんな風に助けたかは覚えていなかった…。)まあ、何かしら困ってそうな人に出会ったらちょっと手を貸すぐらいのことはするだろうなと思って、そっかそっか、おばちゃんによろしく伝えてね〜と彼に言った。すると彼は妙にキラキラした目で私を見て、
「おしょさんスバラシイっす!人助けって、なかなかできることでないッス!」
と、やたらと感心しきりにフロントガラスを拭いてくれた。
そうかな?
とにかく、この20代前半と思われる若い子にこんな風に感心してもらうなんて…妙な照れくささを感じながらも悪い気はしなかった。むしろ、親切ってしとくもんだなと、その”タナボタ"の甘いお味を味わっていた。
でも、人助けってそんなに難しいことではないよな…と、その妙な照れくささの正体にどことなく居心地の悪さを感じていた。
六年前のあの日
今、ふたりの友人と、東日本大震災の七回忌法要を計画している。全国のお寺で、同時多発的に同じ想いの人たちが集う場を作ろうと、知恵を絞りあい出し合っている。そのうちの一人の友人Sさんが、ふとこんなことを漏らした。
「6年前のあの震災の後、何にもできなかった…と思ってるんです。結構、そういう人多いと思います。そういう人たちに、今なら”何かできる”そんな場を作ってあげたいんです。」
うん。
そうだよね。
私も何もできなかった。
(参考:過去記事)
何者でもない者
自分自身、津波の生存者である私は、募金・救援物資・情報拡散・ボランティア…できることはしてたつもりだけど、それが十分だったとはとても思えない。あの巨大な不条理の直後だもの。何をしたって”足りる”とは思えないじゃないか。私は無力だった。何者でもなかった。政治家でもビリオネアでも人気アーティストでもない。どっちみちあの状況では、どんな名のある人だって、無力さに立ち尽く下だろう。でも私は、何者でもなかったとしても、少なくても”突き動かされた”衝動を信じて、できることをしてたとは思う。
(参考:過去記事)
胸の奥の”細胞のシグナル”
私たちは自分の中に立ち上がる衝動としての「慈悲」に、何度も何度も突き動かされている。でももしかしたら、自分はその”大きな慈悲に値しない”と尻込みして、例えば人を助けることを躊躇しているのだ。
私たちの胸の奥に疼く”細胞たちのシグナル”は
こう発してはいないだろうか。
困った人を助けたい。
泣いている人を笑わせたい。
持たない人に与えたい。
この街を元気にしたい。
世界を、変えたい。
そしてそれに自分の”理性とやら”が、
こう応えてはいないだろうか。。
私なんか…
私のようなものが…
私ごときが…
私たちを突き動かす”細胞のシグナル”、それは
想像を大きく超える「慈悲」の存在を証している。
何者でなくてもいい。
その慈悲を恐れずに、使ってしまえばいい。
突き動かされるままに、生きてしまえばいい。
自分の「慈悲」を一番恐れているのは、自分だ。
自分の「慈悲」を、恐れるな。
使っちゃえ!
Unlock yourself.
Unlock your compassion.
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【 佐藤良規・コンテンツ 】
「藤田一照”仏教で人生はもっと面白い?!”」
〈Podcast〉 https://goo.gl/cjRokF
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「社会系お坊さんトーク番組 Time&Tide」
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「医療も葬儀もいらない」
〈Podcast〉https://goo.gl/qyLQMo
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父が、大好きだった。-Vol.2-
仏頂面
私にとって父は、厳しくてけして愛想のいい人ではありませんでした。そう、思い込んでいました。どちらかと言えば、仏頂面の人だったと記憶しています。でも、改めて思い出してみると、どうもそうでもないんです。
夜の本堂で遊んだことや、父の背中に馬乗りになったこと。高速自動車道のSAでたべたすごく美味しいソフトクリーム。冬タイヤを交換に行ったタイヤショップの窓から眺める街。父が買ってくれたババロアをプリンがよかったのにと怒る幼い私。褪せたブルーのツナギにタオルを巻いて草刈りする朝。金曜ロードショウの宇宙戦艦ヤマトは、父のススメで電気を消して観ました。4トントラックを運転したときのドヤ顔。思い出の中の父は、意外とよく笑っています。そして私も、一緒に笑っています。そういえばくだらないダジャレにも付き合わされたっけ。そして、メガネを外すと、濃い眉毛と小さな目がいつもより自信なさげに見えました。
そうです。
私は、父が大好きでした。
(参考:過去記事)
特別な瞬間は、どこにあるのか
父は勤めており、どちらかと言えば忙しい人でした。私たちが慌ただしく学校へ行く朝は気難しい顔をして新聞を読んでおり、夜、帰宅するのはいつも10時過ぎではなかったでしょうか。思春期や反抗期も重なって、中学になってからはほとんど父と話すこともなくなりました。だからこそ、小さいときの父との日常の楽しい出来事が、私にとって本当に特別な、大切な思い出だったのです。そうです。いつも父と出かけるときはすごく特別な気がして嬉しかった…。不思議なものです。思い出すのは本当に日常的なことばかり。「遊園地に行った」「旅行に行った」そんなイベント的なことではなく、まるで”6月18日木曜日の夜”、のような何でもない一日の、何でもないひととき。それがどうにも愛おしくってたまらないのです。
父から教わったことは全て
父の突然の死は、私にとって悲しむべき出来事でした。しかし父の死についての事務手続きや、葬儀の準備などに追われながら、すこし不思議な感覚に気づいてきました。それは、私が父の死をそれほど悲しんではいない、ということです。
私は当時29歳です。十分に大人です。父が他界してもそれほど文句は言えない年齢です。そして不思議なことに、”父に教わることは全て教わった”という確信に近い感覚が、どうやら私にあることに気づきました。父に教わることは全て教わった。だから父に聞きたいことは自分に聞けばいい。私の中に、父はいつでもいるのだから、と。
これは今でも変わらず感じています。正直、たとえば父と「人生について話した」ことは殆どありません。父と暮らしたのは15歳までで、12歳からはほとんど会話もしていません。それでも、父に教わることは全て教わったと、そう思えてならないんです。
でもそれが今になってふと、少し寂しく感じるようになったんです。父と話してみたい。父に孫を見せてみたい。
父に、もういちど会いたいな…と。
素直
私は嬉しかったんです。私が、父を大好きだったってことを思い出せて。なぜか私は、父の記憶を厳しいものや乗り越えるものとして遠ざけていたのです。確かに、怒ると怖かったし、叱られるのは嫌だった。タバコの煙も嫌いだったし、背中のニキビを潰させられるのもゴメンです。
でも、父の帰りが待ち遠しかった。日曜日にふと「ちょっとでかけようか?」と誘われるのが何より嬉しかった。父とふたり、父の車の助手席に乗って出かける特別感は素敵だった。
よかった。
私は父が大好きでした。
それが思い出せて本当に良かった。思い出せるほど、素直になれてよかった。
すみません。
この記事はきっと、父が大好きだと言いたいがために、書いただけなのでしょう。
私は、父が大好きだった。
大好きだよ、お父さん。
Unlock yourself.
Unlock your childhood.