すべての言葉を疑うしかない
わかったようでわからない言葉
震災以降、多くの人がボランティアとして被災地に関わり
「ボランティア」や「支援者と被災者」というくくりに
違和感を感じていた。
それはやはり当事者になることで
「ボランティア」や「支援者と被災者」という
世間で無造作に使われている
「わかったようなわからない言葉」と「実際」に
ある距離感を体感したからなのだ。
たとえば私の場合。
「よりそう心のケア」とは何かという問いを
随分問い続けていた。
それをあくまで「言葉として」問い続けていた
それはつまり言葉として
”「よりそう」とは”なにかの言葉を選び
”「心」とは”なにかの言葉を選び
”「ケア」とは”なにかの言葉を選ぶ。
更に全体の「よりそう心のケア」の意味の言葉を選ぶという
途方も無い話だ、ほんとうに。
「わかったようでわからない」言葉。
だからどうしたってしっくり来ない。
どうしたって。
なぜ「わかったようでわからない」のか。
なぜなら、最初っから
全ての言葉は
「誰かの」言葉なのだから。
「誰か」が作った「よりそう心のケア」という言葉を
無条件に受け入れて、その意味に苦しむという不思議。
そんなばかげたしくみに”ロック”されていたんだ。
「よりそう心のケア」なんて言葉
そんなわかったようでわからない言葉
しっくりこないなら
「使わなければよかった」のだ。
本当のところを言おうとする
「社長!」と、自分の会社の社内で言えば
それは「専務取締役」というような役職を意味するだろうし
アジアの歓楽街で「社長!」と言えば
それは「客としての日本人」という意味になる。
言葉の意味は決まっているようで、決まっていない。
使う状況と、使う人の思いによって
どんな意味にだってなる。
「心のケア」だって
あらゆる仏教の言葉だって。
だから、このブログを書いている。
自分の中にある
言葉になる前の「本当のところ」を
自分ではっきりと知るために。
誰かの作った「言葉」で
「わかったようでわからない言葉」で
いらぬ問いを立てて
もう迷うことがないように
自分の使うすべての言葉を疑って
ひとつひとつ
「本当のところ」を言おうとしなければ。
手探りで、下手でも何でも表現していくしかない。
パンクを取り戻す、私の逆転劇
「わかったようなことを言う大人になんてなりたくない」
90年代のパンクを口ずさんでいた私が
それが自分のスタンダードだったはずなのに
悲しいことに
これは本当に情けないことに
いつのまにか「わかったようなことを言う大人」に
なってしまっていた!
意味もよくわからない、わかろうともしない言葉たちに
いつの間にか慣れてしまい
ロックされてしまっていた。
自分で表現するしかない。
自分で探り当てていくしかない。
すべての言葉を疑って
自分の「本当のところ」を言い当てるべく
「わかったようなことを言う大人」を
アンロックしていくしかない。
これは
”パンクを取り戻す”、私の逆転劇なのだ!
Have a good day, and peace.