本年度の営業は終了致しました。
何かをしようとし続けている
うちの母親を見ていると、時々本当に嫌になる。それは母親が悪いのではなく、母親のふるまいに自分を見るからだ。母はいつも何かをしていなければ気が済まない。泳ぐのをやめると死んでしまう魚のように、いつも何かをしようとしている。ちょっと落ち着いて休んだらと声をかけると、かえって何もしていないのは害悪だとばかりに益々何かをしようとする、その、”何かをしようとし続けている”姿に、私はとてもこころが”ざわついて”怒りと失望の入り混じったような気持ちになってしまう。”何かをする”のはいいけれど、いつも”何かをしようとし続けて”ているのはまるで自分の「今の、心もとなさ」を見せられているようなのだ。
死への恐怖という微熱
頭ではわかっているのだ。今年は、”何かをしよう”としすぎていた。震災で触れてしまった「自分自身の”死”の現実」に、知らず知らずに追い回されていた。なんとなくは気づいてはいた。でも止められなかった。ちょっと落ち着いて休むことができないまま、うつろな陽炎を追って歩き続けていたのかもしれない。禅だの呼吸だのマインドフルネスだの、そこはぶれないつもりでいたのだけれど、結局は「死への恐怖」というウィルスに感染し、微熱が続いていたのだ。 「今への心もとなさ」は、この微熱のせいなのだろう。
アンロックへの脅迫と恐怖
しかし微熱のおかげで、実際いろんなことができたのかもしれない。たくさんの人に会うことができた。たくさんの新しいプロジェクトが始まった。たくさんの世界を垣間見た。たくさんの刺激を受けた。もちろん、それが今すぐ何か結果を生み出すものではないいと知ってはいる。それにしてもどうだろう。思い出しきれないほどの出会いと、完全に読み切れない本の山。つくづくダサいことに、「〜しなければ」「〜らしく」などという自分で仕掛けた「生きにくさ」を「アンロックしよう」としてたはずなのに、まさにその「アンロックしなければ」という恐怖と脅迫に駆り立てられていた。
焦燥感と、その先のアンロックへ
微熱は、実は気持ちがいい。「死への恐怖」に駆り立てられる焦燥感もどこか懐かしく、いまの自分に必要であったのだ。いや、「細胞の叫び」はそこにあって、きっとずっとここにあって、その焦燥感を待ち続けていたのか。”わかったように”生きてしまっていた自分が、その焦燥感で揺り起こされたのだ。
この焦燥感のまだ先の、アンロックが待っている。
どこかで、ひとくぎりがついた。
というわけで
本年度の営業は終了いたします。
そうさせてもらいます。
そうします、勝手に。
明日から新年度にします。
よろしくです。
Unlock yourself.
Unlock your life.
クリスマスと焦燥感と言えばこれ。