僕らにはまだ「旅」がある
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僕らが旅に出る理由
この文章は、東京行の新幹線で書いている。福島の雪化粧をした山並みが美しい。私自身、「旅」が好きだ。それはもう「移動が好きだ」と言ってもいい。
幼稚園の頃、やはり旅好きだったおじいさんおばあさんに連れられてよく「旅」にでかけた。今思えばそれはのどかな温泉旅行のようなものだったり、親戚を訪ねる旅だったんだけれど、3~6歳の私にはまるで「異世界」に行くような体験だった。いつも楽しみにしていた駅のレストランで食べる”お子様ランチ”、当時初めて目の当たりにした”パフェ”なるものにすごく興奮した。親戚の家で眠る落ち着かなさと、”ふすま”から漏れてくる茶の間の光と大人たちの話し声。雪国の何処かでは道路からお湯が噴き出している融雪スプリンクラー?が記憶に残っている。
その後、”貧乏旅行”や”バックパッキング”などと呼ばれるような「自分探しの旅」に出歩くようになったのも、この「祖父母旅行」が原体験になっているのではないかと最近、懐かしく思っている。
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目的も必要ない。ただ、出てしまうこと。
「旅」のいいところは「目的が必要ない」ことかもしれない。「旅」は、「旅をする」ことが目的なので、それ以上”何かをしなければならないと思う必要がない”。それでも日本人は世界の旅行者から見れば「日程を詰め込む忙しい国民」だと思われているだろうけれど、それにしても「旅」の開放感はその「目的が必要ない」ことだろう。
仮に(これは私が個人的に大好きなタイプの旅だけれど)、旅程も決めず、宿泊する宿も決めず、とりあえず切符を買ってどこかに出発したとしても、それはもう「旅」になってしまう。大威張りで列車の座席で読みたいと思ってた本を読もう。「いま、旅なので。」と自分に言い放って。出発さえしてしまえば、ひとはもう「旅の身の上」なのだ。
(過去記事「テレビを消して、空を飛べ」)
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自分探しではなく、自分離れ
「自分探しの旅」における私個人の最大の発見は、その「旅」は「自分探しの旅」ではなく、実は「自分離れの旅」だったということ。自分が背負い込んでしまっているあらゆる日常から「離れてしまう」ことだった。立場、仕事、性別、年齢、過去、未来、全て「自分にまつわるもの」から離れても、そこに「自分」は生きている。それどころか、「それこそ本当の自分」なのだろうという”神秘のかけら”のようなものを、私は今でも手にしているように思う。どんなにしがみついても、「旅」に出てしまっている以上、今までどおりの「自分」にしがみつづけることは難しい。
そして社会、というか世界全体は、私一人が不意に旅に出てしまってもそう変わりはない。自分が関わってしまっている家族や仕事、日常というものも、”あなたが思うより”あなたを必要としていないのかもしれない。これはどこか寂しいような気もするけれど、同時に”身が軽くなる”こと、ある種の「救い」でもある。
(過去記事「名も無きひとつの生命体」)
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悩むことに疲れても、まだ「旅」がある
もし私が悩みに悩んで最終的にどうしようもなく行き詰まったとしても、まだ「旅」という選択肢がある。それはある意味「逃避」かも知れない。それでも「生きる」ことを続ける選択である。僕らにはまだ「旅」がある。人生の”ジョーカー”としての「旅」は、誰にでもある。もしその「旅先」に海外を数えるなら”ジョーカー”は更に協力になる。幸運なことに私は日本という世界最強の通貨の使用国であり、世界最高の”勤勉さ”を備えた国民でもある(この私でさえ)。だからどこへでも行けるし、どうにだって生きていける。
どうしようもないと自分が諦めても、「旅」はいつでもそこにある。出発さえすればいい。
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それでも旅に出れない人へ
いつでも相談に乗ります!
My pleasure!
Unlock yourself. Unlock your life.