Unlock yourself. 自分を”アンロック”せよ

津波から奇跡的に生還した”禅僧”の「自分をアンロック」するブログ。

「葬儀ファシリテーター」になりたくない”2つの理由”

 

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アンロックな学び

先日、密かに師と仰ぐ方とお話した際に「型」についての話になった。

古武術において「型」の稽古が非常に大事なのだけれど、しかし生命の掛かった”実戦”で、「型そのもの」を使うことはない。「型」の稽古を繰り返し行うのは「その先にある真理を体得するため」であって、「型」そのものを「修熟するためではない」、という話。これには非常に”アンロック”された。もちろん、それらしいことは”アタマでは”わかっていたけれど、”ヘソに落ちる”ような納得をした。やはり”師”に直接お会いすることほど”アンロック”な学びはない。

 

1つ目の理由。

前回の投稿と”一見矛盾する”ようだが、私は「葬儀ファシリテーター」になろう!と決意したわけではない。むしろ、葬儀/法事のあり方を「ワークショップという’”現代のフォーマット”」として捉え直し、その場において果たす役割としての「ファシリテーター」を突き詰めてみようという「実験的な思い立ち」なのだ。そう、「ワークショップのファシリテーター」という「型」を探求し、「その先にある真実を体得」したいのだ。

決して、ファシリテーターとして修熟したいわけではない

 

(参考 前回の記事) 

satoryoki.hatenablog.com

 

2つ目の理由。

同業者から起こられるかもしれないが、私は「仏教における葬儀、及び法事の文化的保護活動家ではないし、極論を言えば葬儀はやりたい人がやればいいとさえ思う。繰り返すが私はあらゆることにおいて「世間に物申す」とか「布教しよう」とか言っているわけではなく、「自分をアンロック」することを試みているだけなのだ。

 

被災地でのボランティアでも同じことが言える。最終的に問われるのは「私がどういう人間か」なのであって、ボランティア的な技術や知識の多い少ないではない。

葬儀をどういうふうに行うかより、最終的には私が「どういう人間か」でしか」、その葬儀の保つ意味を根本的に変えることにはならない。

 

 

好奇心と探求と

「葬儀ファシリテーター」になりたくはない。

それはまさに目的と手段の取り違えという典型だ。しかし自分たちが社会に求められている役割について「好奇心を持って探求する」こと。そして「そう生きることを日常にする」こと。そこがほんとうの「アンロック」で、自分の生き方に対する”誠実さ”なのだ。

 

 密かに師と仰ぐあの方も、好奇心のカタマリ。

ミスター・キュリオス・エクスプローラーだもの。


「葬儀ファシリテーター」にはなりたいのではない。

 

好奇心を持って人生を探求し

自分をアンロックしたいのだ。

 

Unlock yourself   Unlock your life.

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佐藤良規
Sato Ryoki
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