「親孝行」は、ヤメちゃっても大丈夫だよ!
*前々回の投稿が消滅してしまったのでキャッシュから復刻しました。内容は前々回と同じです。
タイトルだけちょっとポップにしました。
禊を終えた爽快感
先日の自分の「親の縛り」からのアンロックに、本当に開放された気がして何も書く気になれませんでした。調度良く風邪をひき、治りがけにインフルエンザになり39.5°の高熱にうなされ一週間寝込み、いよいよ「親」との関係の「禊」を終えたような爽快感です。
仏教の古典にも、親や師匠を「捨てて」修行したり真実を求めて出立したりというくだりがあります。アタマでは「人生には親より大事なミッションがある」という風に分かってたつもりでしたが、今は全くちがって見えます。
それは、いわゆる「親孝行」は、「親の側の都合」であり、厳しく言えばそれが「親のエゴ・無知」なのです。
子どもは、知らず背負わされているのです。
上の例で言えば、真実を求めて旅立つこに、親や師匠が「行かないでくれ」と言ったとします。そして子や弟子がそれを聞かずに出て行ってしまう。それを親の側は「親不孝」と呼ぶでしょう。
これは田舎でよくある「子どもたちが都会に出たっきり帰ってこないことを嘆く」パターンによく似ています。都会で暮らす”子ども”は不幸でしょうか?
孤独死上等
世間では「孤独死」がさも可哀想な、さも望ましくないような、さもなんとか解決が必要な問題の「論調」で語られます。
でも、「そもそも」人はひとりです。自分の人生のみを生きています。つまり孤独です。孤独が基本の人生で、孤独死のなにがいけないのでしょう。むしろ「孤独死上等」のほうが生物的に理にかなっている。「オトナの選択」です。その人の人生の豊かさや値打ちは、その人にしかわからない。他人が「かわいそう」とか余計なお世話です。
自分も、「孤独死上等」です。
そもそも、「孤独死ってなんだ?」です。
だって、いつ死ぬかなんて誰にもわからないのだから。
親を孤独死させろ、と言ってるわけではないのです。
親は孤独死を怖れ、子に親孝行を強要する
「親孝行」逆に「親不幸」だって親の側のエゴ。
親エゴです。
残念ですがこれに気づかなければ、お互いやりきれない。
やめちゃってもだいじょうぶ
親は自分の描いた「(自分の)幸せ」を子に求める。
やめちゃっても大丈夫です。それに付き合うのは。
むしろ親が想像もつかないような「自分の幸せ」を生きて、
逆に親の基準値を書き換えるんです。
自分の幸せを生きるってなんだろう?
それがあなたの”一世一代のミッション”です。
親の人生を生きるのではない。
親の思いを成し遂げるのでもない。
親の都合の上の「親孝行」なんてやめちゃって大丈夫。
親の妄想です。
大丈夫です。
親は親です。
あなたを心から嫌いになったりしないでしょう。
(してもしょうがないけれど)
「親孝行」、やめちゃって大丈夫。
自分の幸せを生きる。
ミッションが”そこ”にあります。
もう1回言います。
大丈夫だって!
Unlock yourself.
Unlock your life.