出会え 出会え 出会え
ごちゃまぜの寺
先日、今では有名になりつつあるあるブロガー「Sさん」をお寺に招いて、「ごちゃまぜの寺」なる企画をした。「お寺」をゲストハウスに見立て、そこで自然に生まれる出会いや気づきを楽しもう。そこにその”ブロガーSさんが、いる”ことで、話したかったら話せる場になることを願って企画した。
しかし。。。
人を大切に思うということ
結論から言えば僕の配慮のなさで、Sさんには”非愉快”な思いをさせてしまった。配慮、なんていうと格好がいいけれど、やはり僕はSさんを「大切に」思っていなかったのだと思う。もっと言えば、僕は「他人」を大切に思っていないのかもしれない。内心は、僕はSさんを「ゲスト」「お客様」ではなく、「友達」と勝手に思っていたフシがある。友達だからこのくらいでいいだろう、と。でも果たして(友達だから。。)という基準も、結局は僕が僕自身で仮設した基準にすぎないってことなのだ。そしてその基準は、僕自身から見ても「人を大切にしていない」と感じてしまうもの。実際、Sさんの寝る部屋をベッドメイクしながら、(Sさんを最初からもっと大切に扱いたかった自分)に気づいたのだった…
あえて、口にする
しかし、そのSさんが”非愉快”さをあえて口に出したことで、思いもよらず参加者のみんなが”ほんとうのことを語りだす”場が生まれた。。。
内容についてはご想像におまかせするけれど、参加した”大のオトナ”ひとりひとりが、自分の過去や家族、生きにくさについて、まるでSさんという壁にスカッシュを打つように、ポツポツとぎこちなく言葉を放っていった。
多くの場合、「そこは言わなくてもいいんじゃないか」という領域の「ホントの気持ち」を、Sさんがあえて言ってくれたことで、その場が初めて本当の意味を持った。考えてみれば、Sさんのブログこそ、いやそもそも”Sさんという存在”が、自分自身の心情を「そこまで書くのか」と思うほど正直に、つまり自分に誠実に書いているからこそ、多くの人が共感し、涙し、人生の風景が変わってゆくのだ。
圧縮ファイルを解凍
一方で、僕自身はSさんを迎えに駅までゆき、意外にも自転車で現れたSさんをひと目見て、ある”完結”の・ようなものを感じた。それはブログを読ませてもらい、心情に深く共感しているSさんが「そこに実在する」ということに、ブログを読んだことで受け取っていた”圧縮ファイル”が解凍され、思いや感情がスーッと解けつつ自分自身に沁みわたってゆくような感覚だった。
(参考:過去記事)
出会え 出会え 出会え
翌日は隣の市で行われたSさんをかこんでの「おはなし会」に参加した。この会については別途書こうと思うけれど、やはりSさんに「出会う」ということが、参加者の人達に大きな変化をもたらしていたのが感じられた。
僕達人間は、自分が思うよりずっとずっと身体のあらゆるセンサーが精緻に出来ていて、身の回りで起きている世界を知覚しているのだろう。この会の参加者も、みんなSさんのブログは読んでいて、Sさんんが”話す内容そのもの”は、知識や情報としては知っているはずのもの。でも、「Sさんがそこに存在する」ということを「体験する」ことは身体のあらゆるセンサーでSさんを知覚し、相応の変化を受けつつも与えあっているのだ。
だからこそ、人に会うということの大きな意味がある。
それはその人に「答えを求める」のではなく、「その人という存在」に身体ごと出会う、まるごとを体験するということなのだ。
自分よ、まずは出会え。
出会え、出会え、出会え。
Unlock yourself.
Unlock encountering.
(参考:過去記事)
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【 佐藤良規 】
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