「答え」はあるが、「問い」はあるか?
御幸町六角下ル
昨夜は友人のパーティーに呼ばれ
人生でたぶん3回目の京都に足を運んだ。
京都駅でタクシーを拾い会場の住所を告げると
「あーそれはなお客さん、ゴコウマチロッカククダル
つまりゴコウマチ通りとロッカク通りの角、
そっからちょーっと南に下ったっちゅうことや。
そもそも京都の町はな・・・(以下略)」
と、延々と京都の街の住所について
ご高説を頂いた(笑)
ともかく・・・
そのパーティーには
もはや「ハードコア」と呼べる
”我が道を行く”社会人がたくさんいた。
”だし”専門店の店主
”フリーのファシリテーター”
”社会芸術家”
”戦略研究者”
”一年草の森を作る人”
etc...
田舎者の僕には
もはやどんな仕事かもわからないwww
それにしても新しい出会いは刺激的で
日常では触れられない感覚を
たくさん刺激され、久しぶりにワクワクした。
(参考:過去記事)
語られない共通項
そこに集まっている人たちは
一見脈絡のない立場や職業に思えたけれど
色んな人と話してみると
語られてはいないが
ひとつ共通項が浮かび上がってくる気がした。
それは…
自分はどう生きるのか?
それは、
「正しい問い」を、もっていること
それぞれに
とても専門的な仕事をしている人達だけど
(いわゆる”仕事”というよりライフワーク)
とどのつまり
「自分はどう生きるのか?」
という「問い」を
自分の現場で問い続けているように感じた。
自分はどう生きるのか?
人が、人として生きることで
この世界の調和を乱すことを引き受けた上で
自分はどう生きるのか?
「答え」はある、が
ある有名な若き禅僧のインタビュー記事で
”「悟り」の内容は誰にもわからない。
しかし”ある”と信じて修行する”
と書いてあったのを思い出す。
僕の実感はちょっと違っていて
もはや「悟り」や、「真理」
「幸せな生き方」「お金持ちになる方法」など
あらゆる「答え」は
すでに何百何千も開示されていて
インターネットはもちろん
本屋にだって所狭しと並んでいる。
でも、むしろ僕らは
「正しい問い」を
なかなか持てないでいるのではないか。
(参考:過去記事)
特に「宗教」においては
「答え」を言葉を変えて説き尽くすのと並行して
「正しい問い」を持つことをその”修行”として
道すじだてているのだろう。
なんなら、世の中のあらゆる自己啓発本も
「正しい問い」を持つように
読者を鼓舞しているのではないか。
まるで季節もののように
消費されそうな「答え」をふりかざすのではなく
素朴で、誠実な「問い」。
自分はどう生きるのか。
それに、尽きる。
京都で出会った新しい”出会いたち”は
その「問い」を確かめさせてくれる
自分の水準器のような場所。
京都、また来よう。
京都が、また僕に聞くだろう。
「答え」はあるが、「問い」はあるか?
と。
Unlock yourself.
Unlock your way.