ピストルズを額縁に入れるな
衝動という信仰
自分が青春を過ごした時代に聞いた音楽が、自分の情動に影響していると考えるのは不思議ではない。その音楽を生み出した時代の空気を共有していたとも言えるし、その音楽を産んだアーティストの情動をミラーリングしたのかもしれない。いずれにしても、僕らは90年代のブルーハーツを始めとするストリート上がりのパンクロックで育った。だから、どちらかと言えば世間に従順であること、「いい子」でいることに拒否反応がある。自分を動かすものは世間や常識ではなく、「衝動」だといういわば「信仰」に近いものがある。
額縁の中のパンク
最近のニュースで、パンクの代名詞であるセックスピストルズのマネージャーの息子が、7億円相当のピストルズにまつわるグッズなどをテムズ川で燃やして見せた、というものがあった。その事件そのものよりも驚いたことに、ピストルズの遺品やグッズなどは博物館に収蔵されているという。また、国やロンドン市が「パンク・ロンドン」というイベントをしたそうだ。反体制の旗印であったパンクを、国が商業イベント化する…
額縁の中に入った「パンク・グッズ」に、何の価値もない。
こういう本末転倒は、時間の経過とともに起きてくるものだろう。これは私がお世話になっている仏教界でも同じことが言える。
そんなの趣味じゃない
額縁を売るヒトもいるし、博物館だって集客に困ってる…国だってパンクをアイコンとして売り出したい…。そういう人は好きにやってくれればいい。
経典や伝統が大事なのは100も1000も承知だ。しかし経典や伝統を「額縁に入れて」拝む趣味は全くない。そう、まったく趣味じゃない。パンクがパンクであるのは「その人の生き方」だ。だから仏教だってなんだって、生きたものに出会って震えたい。胸を突き動かされ、今の自分ではいられない衝動に出会いたい。
また今日を生きようと思わせてくれる、そんな衝動に。
Unlock your life.
Unlock your impulsion.