Unlock yourself. 自分を”アンロック”せよ

津波から奇跡的に生還した”禅僧”の「自分をアンロック」するブログ。

臨床宗教師は必要か?

私には要らない

友人から「臨床宗教師」の集まりへの招待が届いた。

最近良く聞くこの名前。「臨床宗教師」。

なんかいい名前。なんか、いい。

宗教者が「こころ」に寄り添ってくれそうな響き。

 

結論から言えば

 

私がこの「肩書」が欲しいかといえば

「私には要らない」

 

緩和ケア病棟とがん患者家族サロンで

のべ8年以上ボランティアしてきた私は

もし”資格”ではなく”実績”であれば、

今ならきっと「臨床宗教師」と呼ばれるだろう。

いや、もしくは名乗ってもいいのかもしれない。

 

でも

臨床宗教師を否定するのではなく

ある理由があって私には要らないんです。

 

satoryoki.hatenablog.com

頭痛が痛い

臨床って

今では「現場に関わる・より実践的な」という意味で

使われている言葉らしいが、

 

 そもそも「宗教者」は

生き死にの「現場」で人々に関わる「実践的」な活動

ではないのだろうか。

 

「臨床宗教師」って、言葉としては

 

「頭痛が痛い」って事にならないの?

 

苦しみは隣の家に

震災以降、いわゆる沿岸部の被災地で

お茶っこサロン」という活動で

(世間で言う「傾聴活動」のようなもの)

避難所や仮設住宅で、たくさんのその地域の人達と、

お茶を飲みながらいろんなことを話した。

 

もちろん、震災についてのつらい思いや苦しみ

やりきれなさや悩み。

いろんなことを聞いた。

(参考:過去記事)

satoryoki.hatenablog.com

心地悪い既視感

ところが。

 

ある年の秋の彼岸、檀家の各家を訪ねる

”いわゆる彼岸参り”をしていた。

 

檀家さんの家々を訪ね歩き、四方山の話を聞いた。

やはりどの家うちにもいろいろな事情があり、

一人ひとりに人生の悩み苦しみがあるなぁと、

しみじみ感じているうちに、

なんだか妙な”既視感”に足元がぐらついた。

 

そして私はアンロックされた。

 

そうか。

 

人の苦しみは

被災地だけじゃなく

病床の傍らだけじゃなく

 

私の隣の家々にあったのだ。

 

もしかしたら

すべての家に

全く同じくあるのだ。

 

私は

病院や被災地に行って活動することで

隣のうちのおばあちゃんの苦しみに

目を向けてこなかったのかもしれない。

 

隣の家のおばあちゃんたちは

私が無事に生きて帰ってきたことを

涙を流して喜んでくれたのに。

 (参考:過去記事)

satoryoki.hatenablog.com

 ラブコールにこたえる

 

どこで何をしようとも

私にとっては全てが「臨床」である

 

それが、ほんとのことだ。

 

「臨床宗教師」という肩書はいらない。

 

なぜなら

 

私にとっては

ただの坊さん」であることが

すでに「臨床宗教師」を含んでいるのだ。

 

関わる家々すべてが「臨床」であって

出会う人すべてが「臨床」だから。

 

でも

でもです。

誤解しないでほしい。

 

私は「臨床宗教師」が話題になることを

すごく嬉しく思っている。

 

なぜなら「臨床宗教師」の”うねり”は、

資格や技術のことではなく

 

宗教者が「宗教者の役割」を

「自分が思っている以上に期待されている」という

宗教者にもっと「会いたい人がいる」という

 

世間からの「ラブコール」なのだ。

 

ラブコールに戸惑いつつも、たくさんの人に会おう。

 

人に会おう。

 

会いますよ。

 

Have a good day, and peace.

 

追記

東北大学が開催している「臨床宗教師講座」のHPには

開催の趣旨がこう書いてある。

 

 ”これは高いレベルのケア能力の獲得を示すものであるというより、

 「臨床宗教師」として必要な基礎的な知識とスキルを身につけ、

 以後の終わることのない自己研鑽の歩みへの

 スタートラインに立ったことの証明であると考えています。”

 

大いに共感します!

 

Unlock yourself.

Unlock your life.

 

・・・・・・・・・

佐藤良規
Sato Ryoki
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