親不孝こそ、知られざる親の本望
親と子の因果
思った以上に前回の投稿には反応がありました。多くの人にとって「親と子の因果」は気づいていてもいなくても大きなテーマなのです。コトバが不十分で誤解や誤読を招くかもしれないという不安が僅かにありましたが、そもそもコトバとは不十分なもの。そして「十分な」ことばかり期待することがそもそも「しんどさ」なのでしょう。
*なぜか前記事が消失しました(T_T)
*キャッシュから復刻しました(@_@;)
親不孝をしたことがあるか
私は今まで「親の期待に応えない」選択を重ねてきたと思います。つまり「親の期待」は想定していたんです。想定しつつ応えなかった。これには罪悪感がありました。しかしどうも私の親は私を「期待に応えないように」育てたフシがあるのです。コトバにしようがしまいが、親として子供に「(こうなってほしいと)期待する」ところはあった。でも、育てた方向性は「自分で考えて決めろ」。そこに救いがあったように思います。今となっては。
海外を何の連絡もないままほっつき歩いていたり、寺も継がず定職にもつかず、挙句何の相談もなく遠洋漁業に出てしまった息子。
親の立場ならこれは「親不孝」かもしれない。
しかし私は自分で感じ、自分で考え、自分で生きていた。
楽しかった!
そう仕向けたのも親なのです。
親不孝をしよう、親のために
うちの田舎の「子供の理想の将来」の一つの典型的な雛形は、「岩手大学を出て、公務員になる」です。
東北大学ではダメです。上智やICUなど大学だかなんだかわかりません。カルテックは農機具屋かなんか、カーネギーメロンはネギなのかメロンなのかわかりません。やはり岩手大学です。
就職はグーグルでもなくアップルでもなくユニセフでもなく国境なき医師団でもなく、県の公務員です。ダントツです。羨望です。とにかく横文字はダメです。
無知と言わずなんというのでしょう。
親のモノサシは子の可能性には小さすぎる
親は親のモノサシでしか測れない。
親のモノサシは子供の「可能性」にとって小さすぎます。だからこそ親のモノサシでは測れないような「親不孝」をすることが、私たちの大きな成長や可能性の実現ということになるのです。
「親不孝」はつまり親の「思考」です。「感傷」です。「エゴ」です。でも同時に子供が”親不孝を犯して”、モノサシを大きく塗り替えてのびのびイキイキ生きるとすれば、それは親にとって知られざる本望です。味気なく言うならば、「種」として望ましい結果です。
だから、親不孝をします。
だからこそ、親不孝します。
感傷の片隅に残る罪悪感を手懐けながら、親不孝をします。
モノサシは、塗り替えられるべきものです。
そして私のモノサシも、塗り替えられる時が来るでしょう。
Unlock yourself.
Unlock your life.