親子の”絆”をアンロックした日
人生のラスボス
以前どこかで「人生のラスボスは”母親”だ」と、書いた記憶がある。その時はまだ本当に納得したうえでそう書いたわけではなく、結局は親との関係で「子」の人生は大きく影響されるだろう…そんな程度だった。
私は母親がとても苦手だ。
苦手だった。
天真爛漫で社交的。どちらかと言うと誰からも好かれるタイプの母親。天然素材ゆえの不思議な振る舞いはご愛嬌。働くのも厭わず孫達の面倒見もいい。うちの嫁もまあそれなりに仲良く同居してくれている。(これはこれでありがたいことだ)
なのに私はほんとうにこの母親が苦手なのだ。
母はとにかく「我が強い」と思っていた。ああ言えばこう言う。「こうしたら?」という私の言葉には一切耳をかさない。「そうだね」なんて言うことはまずない。うちあたりの田舎では「返歌を返す」という典型で、「ああ言えばこう言う」タイプ、だと思っていた。やはりラスボスなのだ…。
ほんとうのからくり
ちがったのだ。
ついにその日が来た。
今日もいつものように些細な事で小競り合いをしていた。
私の言うことに耳をかさず、自分の主張ばかりしようとする母にいい加減うんざりして大きくため息を付いた時、不意に自分の叫び声が心のなかに聞こえた。
「いい加減、オレを認めてくれ!」
・・・。
そうか。
そうだったんだ。
「ほんとうのからくり」が、わかってしまった…。
(過去記事「生命をアクティベートする”からくり”」)
小学6年生という”まぼろし”
私は、母親に「認めてもらいたかった」のだ。
私がすることや言うことを母親に認めてもらいたかっただけなのだ。
今年43歳になる大の大人なのに、ココロはそんな子どものままだったのだ。
そして
私は高校1年から家を離れ下宿していた。中学の三年間は反抗期もあってほとんど両親と話らしい話をした記憶が無い。つまり母にとって私は「小学校6年生」の記憶が一番”まぶしい記憶”なのではないだろうか。
母は母で、感覚的には「小学生の私を育てる母親」のままだったのだ。
私はいい加減大人になって自分で家庭もあって責任を果たしている。「その私を」「子どもの立場で」認めてほしがってた。一方母は、私のことを今でも「まだ何も知らないかわいい息子」として心配し、43歳の私を「親として」教えようとしてた。
噛み合うはずがない。
誰も悪くなかった
なにか憑き物が落ちたよう。
そうか、認めて欲しかったんだ。
「そうか、すごいね〜」
「へぇ!よくやったね!」
私が自分の子供達にしているように、そんなふうに認めて欲しかったんだ。私の中の「6年生の男の子」が、そう言っていたんだ。
自分が、なんだかとても可哀想で愛おしい。
私は自分を43歳の大人と思いながら、6年生のココロで母親に接し
母は私を6年生だと思いながら、43歳の私に戸惑っていた。
よかった。
誰も悪くなかった。
「絆」をほどけ
東日本大震災以降、「絆」という言葉がもてはやされた。
「絆」という言葉にどうも馴染めなかったひねくれものの私は、早速意味を辞書に尋ねてみると、「動物をつなぐ綱。転じてしがらみ」と、半ば思った通りの決して「美しい」だけの言葉ではなかった。
親子の「絆」。
きっと誰でもこの「絆」を引きずって引きずり回して一生を終える。
親を否定するのではなく、この「しがらみ」にちゃんと向き合うことができればはじめて「親」をひとりの人として付き合うスタートに立てるのだ。もっと言えば、自分が自分をちゃんと認めて「そっか、よくやってるよ!」と言ってあげることでもあるのだ。
あぁ。
大きな喪失感と
思いがけない開放感に
なんだか落ち着かない。
でも、良かった。
「絆」をアンロックしたのだ。
「絆」を”ほどいた”のだ。
さあどうなるんだろう。
これは思ってる以上のパラダイムシフトかもしれない。
どうなることだろう。
私と
母に
全ての子供と母親に
幸あれ。
Unlock yourself. Unlock your life.
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佐藤良規
Sato Ryoki
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