何もかも捨てて旅に出たとしても
海を泳ぐ魚に名前はない
前回の投稿同様、まだ「旅の身の上」で書いている。もちろん仕事がらみの「移動」に近いものであるけれど、日常生活の「場所」を物理的に離れてしまうことはココロにおいては「旅」といえる爽やかさがある。私は”どこの誰でもない”。その爽やかさは私達が”ほんとはそうなんだ”と”実はわかっている”からなのだ。海を泳ぐ魚に名前はない。名前をつけているのは人間なのだ。
(過去記事 僕らにはまだ「旅」がある)
カンボジアの安宿
20代前半、寺を継ぐべく”坊さん”になるか、またはもっと”心の声”に従って世の中をこの目で見て歩くか。そんなぼんやりとした、でも青年期の私にはそれなりに切羽詰まった気持ちを小脇に抱えながら”失われた王国”であるカンボジア・アンコールワットを旅していた。一泊200円かそこらのゲストハウス・いわゆる安宿に泊まっていた私は、同じくその安宿に泊まっているらしい中年の日本人夫婦と、庶民的な生活感まるだしの居心地の良いラウンジでどちらからともなく話をした。
どこの国に行ったか、これからどこへ行くのか。そんなありふれた話から始まったが、わたしはつい「なぜ、旅をしているのか」を尋ねた。なぜなら、学生のバックパッカーによく知られたその安宿に、その夫婦はあまりにも”そぐわない”何か雰囲気があったからだ。
1995年3月。
その二人は、神戸から来ていた。
すべてを捨てて
その夫婦は、阪神淡路大震災で全てを失った。
奇跡的にいのちは助かったが、家も職場も全て倒壊。見る影もない姿となった神戸の街で、二人はしばし立ち尽くした。
それでも二人は瓦礫を片付け、生活を取り戻そうとした。でもある日、旦那さんのほうが「全てが嫌になってしまった」。奥さんも同様に疲れ果てていた。奇しくも、東日本大震災のあの風景を知っている私は、そのあまりにも”想像を超えた不安”に押しつぶされそうになる気持ちが、痛みを伴ってわかる。
お互いの気持を話し合った後、二人は「すべてを捨てて旅に出る」事を選んだ。
もう何もかも嫌になっちゃって
それなら旅に出ちゃおうって。
片付けや復興を頑張っている親戚や友人には
本当に本当にすまないとは思うけど
あのまま神戸にいたら
私たち”だめに”なっちゃってた。
だから有り金ぜんぶかき集めて
行き先も決めずとりあえずバンコク(タイの首都)に飛んだの。
これからのことは、旅をしながら考えるつもり。
日本に戻るかもしれないし
戻らないかもしれない。
でも
運よく私たち生きていられたから…
生きてさえいればどこで何しててもいいと思ってる…
(過去記事「だからとにかく大丈夫なんだ」)
生きていればそれだけでいい
23歳の私は、初めて会った阪神淡路大震災の”当事者”の言葉に、息を呑んで聞き入っていた。そんな人生もあるのか…。いや、そういう選択もできるのだ…。
その夫婦は宿にいても決して朗らかに他の旅人と交わって話してはいなかった。どちらかというとひっそりとその場に居るという感じだった。だがその語り口には、もちろん忘れたり消えたりするはずのない悲しみや失ったものの質量を感じはしたけれど、同時にある種の軽やかさと爽やかさがあった。
みんながそうではないかもしれない。
そうでなければならないわけでもない。
でも
そういう生き方もある。
そういう選択もある。
それだけでも
この夫婦の人生の選択は
私の中のカタチのない不安を
アンロックした。
何もかも捨てて旅に出たとしても
なんとかなる
なんとでもなる。
どこで何をしていてもいい。
生きていればいい。
それだけでも、いいのだ。
Unlock yourself. Unlock your life.
※大変失礼ながら、この記事を書きはじめてから、今日がその1月17日だと気がつきました。
この不思議なシンクロに驚きながらキーを叩きました。
阪神淡路大震災に関わる全ての方とあの時のご夫婦、
そして全ての人へ、心からの祈りを捧げます。
安らかでありますように
おだやかでありますように