Unlock yourself. 自分を”アンロック”せよ

津波から奇跡的に生還した”禅僧”の「自分をアンロック」するブログ。

あなたの使い方は世界が決める

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正直に生きる怖さ

自分に正直に生きるというのは

何か反射的に身構えてしまうような

どこか恐怖感がある。

 

その恐怖感をよく見てみると

それは「恥ずかしさ」と言い換えられる。

そしてなぜ恥ずかしいのか?と

落ち着いてよく考えてみると

どうも「自分を否定される」恥ずかしさであり

恐怖であるようなのだ。

 

※心理学では詳しく研究されてるだろうけれど

私は私の感覚で書きたいので。

 

あいつは何の実績もないくせに

あいつは学歴もないくせに

あいつは恥ずかしいやつだ

あいつはバカだ

あいつは何もわかってない

あいつは身の程知らずだ

あいつは何様だ

あいつは・・・

あいつは・・・

 

と、たくさんの声が聞こえてきはしないだろうか。

うん。

聞こえてくる。

 

その声の主は誰なのか。

 

・・・。

 

そう!

 

自分なんだ!

 

自分が、自分にダメ出しをしている。

 

自分に生まれつき、ダメ出しグセがあるわけではなく

(オレってだめだぁ…っていう赤ちゃんはいないだろう)

 

きっと「親」や「友だち」を含んだ「環境」が

つまりは「外野」が!

癖になるまでダメ出しをしてきたんだろうと思う。

 

そんな恐怖や恥ずかしさが

自分に正直に生きることを

こんなにも引き止めてくる。

 

でもです。

 

実際問題として

自分に正直に生きると

そんな風に「外野」に

ダメ出しや非難をされてしまうのだろうか?

 

(参考:過去記事)↓ 

satoryoki.hatenablog.com

 

今をときめく仏教女子

実は今日、親しく思っている友人に

久しぶりに会うことが出来た。

 

自著を出版したての彼女は

一皮むけたような初々しさと逞しさで

軽やかにその場を和らげていた。

 

私が「自分に正直に生きる」ことをやってみようと思ったのは

彼女のブログのひとことがキッカケだった。

 

それは

 

「自分の使い方は世界が決めてくれる」

 

だった。

 

オープンソース

ITのことは詳しくないけれど

グーグルが成功した要因に

自分たちのプログラムを※オープンソース化し

世の中の人達がみんなでグーグルのプラットフォームを

研究・開発していったから…という記事を読んだ。

オープンソース - Wikipedia

 

そうか。

自分が正直に生きることって

自分の弱さやダメさを隠さないことって

「”私”の、オープンソース化」

なのかもしれない。

 

私が何が好きで何が嫌いで

どんな過去がありどんな未来を願い

何が出来て何が出来ないか

 

それを正直に明け渡してしまえば

あとは「世界」が、

必要に応じて使ってくれるのだ。

 

こんな人になりたい。

こんな人でありたい。

 

私は自分勝手にそんなことを思うけれど

 

「世界」は私に全く違うことを求め

全く違う形で世界に貢献するのかもしれない。

 

私はただ、正直に生きていればいいだけ。

 

「私」の玄関の扉を、

開け放っていればいいだけ。

 

世界の要請に、応えていけばいいだけなのかも知れない。

 

広い芝生があっただけ

彼女の言葉に出会ってから一年。

私にダメ出しし、非難するひとが

いないわけではない。

 

それ以上にわかったことがある。

 

それは

自分を開け放ってみれば

 

そこに「外野」も「内野」もなかった。

野球場ですらなかった。

 

寝転がっても走り回ってもいい

ただのひろーい芝生があっただけだった。

 

グローブを持って身構えて

バットを振り回して怖がっていたのは

自作自演の(頭の中の)お芝居だったようだ。

 

さあ、芝生の上で何をしよう

ともすれば

「見えざる競技」を「見えざるスタジアム」で

「見えざるルール」でダメ出しする

そんなパターンにとらわれてしまう。

 

そこにあるのは芝生だけ。

何をしてもいい。

世界が要請してくれる。

 

自由に、応えればいい。

 

・・・・・・・・・・

 

しかし、彼女に会えて

嬉しかったなぁ。

 

Unlock your shame.

Unlock your source.

 

というわけで、彼女の本です。

ぜひ手にとって、彼女の言葉に出会ってほしいです。

(密林へのリンクです↓)

教えて、お坊さん! 「さとり」ってなんですか

教えて、お坊さん! 「さとり」ってなんですか

 

 

 

 

 

 

”ヴァルネラビリティ”をアンロックせよ

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ヴァルネラビリティ?

このヴァルネラビリティ-vulnerability-という

耳慣れない言葉を初めて聞いたのは、

たぶんTEDだったと思う。

 

同じ言葉を6月にサンフランシスコで

メンター2人の口から、マインドフルネスや

コーチングのキーワードとして教えてもらった。

 

vulnerabilityとはなんぞや?と、調べてみると

「弱さ」「脆弱性」「攻撃されやすさ」などと

そんな意味が出てくるが

人や心に対して使う場合は、ニュアンス的には

「弱さ」が近いのかなと思う。

(言葉は所詮使う人の感覚の表現でしかないので。)

 

マインドフルネス、コーチングの世界で

この”ヴァルネラビリティを認める”ことが

大事なポイントだという。

 

それがどうにも引っかかっていて

なにか自分が感じ続けていたことを解き明かす

”隠されたコード”のような気がして

そのTEDを何度も見返し、やっと腑に落ちた。

ブレネー・ブラウン:傷つく心の力 | TED Talk | TED.com

 

正直さしか、共鳴しない

「津波」という生死を分ける体験の後

ほとんどのことが”どうでもいいこと”だとわかり

 

正直な言葉、正直な人、しか

僕には響かない、ということが分かった。

 

「ほんとうに生きている人」に会いたくて

「ほんとうの言葉」を聞きたくて

 

そうやって出会った人たちや言葉たちは、結局

「自分に正直に生き、話している」

ということだった。

 

年齢や立場でモノを言うのではなく

いいところばかりを見せるのではなく

 

むしろ”失敗”や”恥ずかしいところ”を正直に認め、

それをいわば”人目に晒す”、

そんな正直さ、誠実さ。

 

僕の心を動かしてきたのは

そんな「正直さ」だった。

 

(参考:2015-12-06過去記事)

satoryoki.hatenablog.com

 弱さを”人目に晒す”と、何が起こるのか

自分自身、何が起こるかわからないまま

震災以降、積み重なってバランスを失いつつあった「本音」を、拙い言葉で拙いままに書き、

ブログというカタチで衆目に晒した。

 

あの頃は(といってもまだ一年前でしか無いけれど)

まるで熱帯の奇病にでも冒されたように

衆目に晒すことを恥ずかしいとも思わず

自分の「弱さ」「脆さ」を、

吐き出すように書いていた。

 

結果、どうなったのか。

 

 

誰かを励まそうとしたのでもなければ

誰かを助けようとしたのでもない。

誰かへのメッセージでさえない、

そんな言葉たちだった、はずなのに。

 

”ブログに救われています”

”今日を生きる元気をもらいました”

”いつか会いたいです”

 

そんな予想外の反応がたくさん届いた。

 

そうか。

私が何者であるか、ということは

大した問題ではなく、

私が何を知っているか、ということも

大した問題ではない。

 

私が「ほんとうのことを」晒しているかどうか。

無防備に、そこにいるかどうか。

 

それこそが他人とつながる”隠されたコード”だったんだ。

 

ただの”自分”で、開き直って生きること

私達はみんな、ミリオネアでもなければ

何かを成し遂げたわけでもない。

 

ティク・ナット・ハンでもなければ

スティーブ・ジョブズでもない。

 

ただのひと、だ。

なのに、だから、

”何者か”のように振る舞う必要はない。

 

弱くて、脆くて、情けなくて

それでもなんとか生きている「ただの自分」。

でも

あなたがそのままの姿を見せてくれれば

どれだけの人が勇気をもらうだろう!

 

弱さを認めることは、勇気がいるかもしれない。

でも、弱さを隠し続けるほうが

長い目で見たら、本当は辛い。

 

何者でもない自分で、開き直って生きる。

ヴァルネラビリティを手がかりに

他人とつながり

より自由に身軽に生きる”隠されたコード”が

手に入るかもしれない…

 

Unlock your vulnerability.

Unlock yourself.

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世界の、至るところに希望がある


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【僕らは、太平洋でつながっている】

昨年6月にポートランドに行った際
たまたま尋ねることになった”日本庭園”で

たまたま出会った内山さんと、

 

津波で流され、ポートランドに流れ着いた

「笠木」の物語。

 

その「笠木」がついに八戸に帰り着いた。

 

内山さんに誘われるまま、

笠木の里帰りに立ち会った。


八戸の笠木がオレゴンにたどり着く。
その笠木が太平洋を渡ってまた八戸に帰ってくる。

 

この物語がなぜこうも不思議に満ち溢れ
僕達を惹きつけるのかに思いを巡らせていると


その”不思議さ’が、むしろ”あたりまえのこと”として
立ち上がってくるのを感じた。

 

それは、「僕らは太平洋でつながっている」という
事実だった。

 

【人の心が動けば、動かないものはない。】

内山さんはスピーチの中でこうおっしゃった。

 

「戦後70年を迎える今年、

    敵味方に分かれて戦ったアメリカと日本が
 いまこうしてお互いを許し合い、

    多くの人のご縁がつながって
 この笠木の里帰りが実現したことは

    本当に意味の有ることだ。

 

 ”人の心が動けば、動かないものは、ない。”

 

 それを証明してくれた。」

 

 そしてこの日、笠木とその物語は
 また多くの八戸の人と、

    関わったすべての人の心を動かした。

 

http://www.news24.jp/sp/articles/2016/05/02/07329180.html

 

【孤独になど成り得ない】

僕自身がたまたま津波に遭ったことがご縁で
今まで縁もゆかりもなかったポートランドを訪ね
たまたま出会った笠木の物語は


この”たまたま”という表現を持って
ある意味では、僕らが求めて止まない

 

”人と人との繋がりの不思議さ”を
何度も何度も見せてくれている。

 

なぜこの物語に僕らは魅せられるのか。

 

それは僕らがそもそもひとつの”いのち”であり
”繋がり合う”ことを体感することで


思考においては信じることのできなくなった

”ひとつである”という事実を


感触として」取り戻すからなのだ。

 

だからこそ人は人のために何かをしたがり
人とのつながりを感じたがるのだ。

 

人は孤独を恐れ、

あらゆるコミュニケーションを生み出した。

 

なのに事実はといえば
そもそも”ひとつ”であるからこそ
誰も孤独になど成り得ないのに

 

【世界の、至るところに希望がある】

内山さんはこうもおっしゃった。

 

「悲しい、不条理なニュースばかりが報道され
 私たちも世界に対して失望したがっているが、
 本当はそうじゃない。


 この笠木の物語は世界中いたるところにあり


 世界には、希望がたくさんあるんだ。


 時々、この笠木の物語のようなことが起こり
 私たちにそのことを感じさせてくれる。

 

 世界には、希望がたくさんあるんだ。」

 

Unlock yourself.

Unlock your life.


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