これからはペイ・フォ○○ト
ギフト経済?
ギフト経済に関する記事や本をいくつか読んだ。耳慣れない言葉だけれど、要は与え合うことで社会が豊かになってゆく、というもの。D最近このカラクリにずいぶん自覚的になってきた。仏教でも「布施(与えること)」という修行があるが、この修行には「見返りを求めない」という条件がついてくる。(そもそも、布施とはお坊さんは受け取るばかりではなく、修行として”する”ものなのだ)まずは見返りを求めずに与える、ということの「価値」がわからないのが普通だと思う。だって与えるだけでは「失う」と同義のように思えるからだろう。
ところが、「与える」をしてみると、予想外のことが起こってくる。
(参考:過去記事)
ペイ・フォワード
以前観た「ペイ・フォワード」という映画にずいぶんショックを受けた。日本語で「恩送り」とも訳される言葉の「ペイ・フォワード」。主人公の少年は自分の人生がなかなかうまくいかないが、授業で世界を良くする方法を考えた末、「三人の人に親切にし、その3人がそれぞれまた別の3人に親切をし、その3人が…」というアイディアを思いつく。(つまり親切のネズミ講?)その少年がアイディアを実践すると、世界に少年の想像を超えた大きな変化が起こってゆくが…
ネタバレになるので止めますが(笑)素晴らしいストーリーなのでぜひ見ることをオススメします。原作も素晴らしいです。私は原作から読みましたが、映画を見て更に感度を深めました。
この映画の”ミソ”は、主人公の少年が自分の起こし続けている奇跡のような出来事に気づかないでいる、ということだと思う。どうも自分の人生はうまく行っていないと思いつつ、それでも「親切」を健気に「実践して」いき、衝撃のラストの後、はじめて彼の起こした奇跡の全体が見える…
Pay It Forward (2000) Official Trailer - Kevin Spacey, Helen Hunt Movie HD
”親切”というイタズラ
私たちは親切と言うものをマジメに考えすぎているのかもしれない。
例えば私は、自動販売機や駐車場の”お釣り”のところにわざと10円玉をひとつ残してゆくという”遊び”をしている。次の人がちょっと喜んじゃうだろうなぁなんて想像してひとりほくそ笑む(笑)もちろん、その10円を誰かが受け取るという”結果”は見ることはない。でも、いいのだ。親切をする(与える)ことが面白いんだから。しかも”ほくそ笑み”の値段が10円ならお安いものだ。
こんな遊び程度の親切なら、誰でもいくらでもできる。でもその親切を「善いこと」としてしようとするとグッと気が重くなる。親切なんて遊べばいい。親切というイタズラをする方が、愉しくてお洒落ではないだろうか。
(参考:過去記事)
ペイ・フォゲット
ペイ・フォワードは好きだ。でもどこか、その”ご利益”に期待する含みがある。もちろん、ペイ・フォワードの映画の主人公のように、たくさんの奇跡が起きてくるのだけれど、それは自分自身にははじめは見えにくいものだろう。見えにくいからこそ、”ご利益”を期待すると続かなくなってしまう。
だからいっそ「ペイ・フォゲット」なのだ。親切をしたら、それを忘れてしまう。「親切する喜び」だけを愉しもう。その愉しみを続けているうちに、いつかその全体のカラクリに気づいてくる。
大好きだけれど、ペイ・フォワードをアップデートして「ペイ・フォゲット」に。
ほら、例のアレですよ。クラッシックなやつ。
「忘れて下さい。名乗るほどのものじゃありません…。」
Unlock yourself.
Unlock your kindness.
Don't mind 瞑想のススメ?
マインドフルネス瞑想の大流行?
昨今、マインドフルネス瞑想が流行っているらしい。
名のある大学の教授さん達も
こぞってマインドフルネスを謳うセミナーや
フォーラムを開いているようだ。
つまりはもっと前から瞑想について研究や実践を
していた人たちがいたんだろうなあ。
さて、「マインドフルネス」という語感が
どうもしっくりこないのは私だけかな?
英語がネイティブでもない者にとって
ちょっと新しくて素敵には聞こえるけど…。
ドンマイ瞑想®?
友人のFBの投稿からいいネタをパクります(笑)
その名も「ドンマイ瞑想」(笑)
ドンマイってDon't mind。
気にするな、って感じだろうけど
ここはひとつ「大丈夫!」と意訳したい。
瞑想中に思考がとっちらかってきたら
「ドンマイドンマイ」と唱えて
また呼吸に戻ってくる。
考え事しても ドンマイ(大丈夫)。
眠くなっても ドンマイ(大丈夫)。
このほうが結果的に”マインドフルネス”に
しっくりこないかな?
「Don't mind(ドンマイ)瞑想®」(笑)
小ネタですみません(笑)
Unlock yourself.
Unlock your life.
ピストルズを額縁に入れるな
衝動という信仰
自分が青春を過ごした時代に聞いた音楽が、自分の情動に影響していると考えるのは不思議ではない。その音楽を生み出した時代の空気を共有していたとも言えるし、その音楽を産んだアーティストの情動をミラーリングしたのかもしれない。いずれにしても、僕らは90年代のブルーハーツを始めとするストリート上がりのパンクロックで育った。だから、どちらかと言えば世間に従順であること、「いい子」でいることに拒否反応がある。自分を動かすものは世間や常識ではなく、「衝動」だといういわば「信仰」に近いものがある。
額縁の中のパンク
最近のニュースで、パンクの代名詞であるセックスピストルズのマネージャーの息子が、7億円相当のピストルズにまつわるグッズなどをテムズ川で燃やして見せた、というものがあった。その事件そのものよりも驚いたことに、ピストルズの遺品やグッズなどは博物館に収蔵されているという。また、国やロンドン市が「パンク・ロンドン」というイベントをしたそうだ。反体制の旗印であったパンクを、国が商業イベント化する…
額縁の中に入った「パンク・グッズ」に、何の価値もない。
こういう本末転倒は、時間の経過とともに起きてくるものだろう。これは私がお世話になっている仏教界でも同じことが言える。
そんなの趣味じゃない
額縁を売るヒトもいるし、博物館だって集客に困ってる…国だってパンクをアイコンとして売り出したい…。そういう人は好きにやってくれればいい。
経典や伝統が大事なのは100も1000も承知だ。しかし経典や伝統を「額縁に入れて」拝む趣味は全くない。そう、まったく趣味じゃない。パンクがパンクであるのは「その人の生き方」だ。だから仏教だってなんだって、生きたものに出会って震えたい。胸を突き動かされ、今の自分ではいられない衝動に出会いたい。
また今日を生きようと思わせてくれる、そんな衝動に。
Unlock your life.
Unlock your impulsion.