ハッピーであることがハッピーなのだ。
そんなはずないんだから
3月は東北にとってツライ月。世の中が一斉に「あの日を思い出せ!」と騒ぎ立てる。その日、東北にいないことが「罪悪」に感じるほど、それはそうなんです。私は個人的に「津波体験者」であるけれど「被災者」とは名乗りにくい。だけど3月は嫌だ。思い出したくない。
だって、「忘れるはずないんだから。」
結局、ともだちベース
私はといえば、「頼まれごと」を引き受けているうちに、”あこがれの航路”を渡って南の島に来てしまいました。その「頼まれごと」とは、この南の楽園でおこなわれるフェスティバルでの「東北物産展」でした。今日、頼まれごとが一段落してホッとしています。
どう呼んでもいいけれど、「被災地支援」というよりは「”ともだち”応援プロジェクト」なんだなあと感じました。被災者と非被災者、被災地と非被災地。そういう間柄ではなく、結局「ともだち」として想い合っているんです。
その証拠に…
楽しいことの先にあるもの
本当に多くの人が東北から来た私たちに声をかけてくれました。
「東北から来てくれてありがとう!」
「応援してるわ!」
ティーンエージャーの子も
「あのとき中学校全員500人で祈ったの!」
と言ってくれる。
フェスティバルが終わる直前に来たある女性は
「ラジオで日本の東北から来るって聞いて、急いできたの!
あるもの全部買うわ! ありがとう、来てくれて…」
と言って本当にあるものを殆ど買ってくれました…。
ものを買ってくれ、しかも感謝される…
ガスでフタがふっとんだ時に
本当にハッピーな一日でした。
頼まれごとの末に、こんなにハッピーになるってちょっと前まではピンとこなかったかも知れません。そのカラクリの歯車の一個は「なんで頼まれ事を引き受けたか」。それは本当に単純に「楽しそうだから」です。こういう結果がわかっていたわけではなく、なにか自分の奥底のスプライトみたいな気持ちがシュワシュワしたからです。引き受けたというよりも、その炭酸ガスがいっぱいになってフタがふっとんで「引き受けちゃった」のです。その時点で、僕はハッピーでした。(でもそれを容認してくれた嫁さんには感謝です(汗))
ハッピーでいることがハッピー
この数日、ある知人の女性の家にホームステイさせてもらっています。彼女の夫さんはオープンで明るいでお馴染み(らしい)オレゴン出身。彼は、本当にハッピーな人です。何がハッピーって、いるだけでハッピー。何をするにも”お茶目さ”があって明るい。それはコーヒーを淹れる、それだけでもなにかハピネス・フレイバーを感じます。
「ハッピーでいることが好きなんだ。ハッピーでいれば何も問題無いだろう?
人生にはいろんなことがあるけれど、それと”ハッピーでいる”ことは
あんまり関係がないんだ。ハッピーでいようと思えばいつでもハッピーで
いられるんだよ!」
今日は本当にハッピーだった。今もハッピー。
夕食の席で彼が言ってくれた。
「サトーさん、君が生きててくれて僕は本当にハッピーだ!」
Unlock yourself.
Unlock your life.