あなたの「いのちの灯火」を灯せ
3月が消えてなくなればいい
3月が近づいてくる。これはどうしようもないことだけれど、東日本大震災という大きな十字架を背負った東北の私たちにはどうしても心苦しい季節だ。幸い、わたしはテレビを見る習慣がないからまだマシだけれど、世の中が3月11日に向けて”ざわついてくる”気配だけで、そっと窓のカーテンを閉め、自分の中に閉じこもってしまいたくなる人がどれほどいるだろうと思うと、それもまたやるせない。3月など消えてなくなってしまえばいいと、ある被災者の友人が呟いた言葉が心に残っている。
私は坊さんの身でありながら、「法要」というものが苦手です。禅宗の、見方によっては厳格で美しいと言われる所作、作法も苦手。なかでも「法要」という独特の空気感がどうにも苦手なのです。正直言ってやることがそれほど難しいのではなく、どうも「身体」が抵抗するんです。特に、東日本大震災関連の「法要」は。
3月11日界隈には、全国から”被災地に”僧侶や宗教者が集まって来る。それを否定するつもりもないし、それぞれにやったらいい。しかし私のまわりで(つまり東北の被災地界隈で)、「追悼」や「供養」の場に行くつもりだ、という人に会ったことはない。全くない。不思議な話だ。では全国から集まる宗教者が催す「法要」に、誰が参列するんだろう?
(参考:過去記事)
命灯会
しかし今回、縁あって(縁にけしかけられて?)東日本大震災の「法要」を行うことになった。それも名古屋を中心に、大げさに言えば世界同時多発的に同じ想いで「法要」をしようと言うことになり、その片棒を担いでしまっている。それは被災者当人ではなく、多かれ少なかれ震災で人生の何かが変わってしまった人たちのための法要となる予定なのだ。
私が檀家さんとともにお勤めする葬儀や年回忌供養などの「法要」も、震災の前後ではわずかに、しかし決定的にその態度が変わってしまった。震災以前は、どちらかと言うと”漠然と死者を向いて”、死者への”手向け”としての法要をしていたように思う。
しかし震災以降ははっきりと、「生者」のための法要としてお勤めしている。そして「態度」こそ、その法要が何であるかを決定づける一番大きな要因なのだ。
東日本大震災から丸6年経つ。いわゆる七回忌を迎えることになる。
私たちはその法要に「命灯会」と名を付けた。
「ほんとうに生きて」いるか?
あまりにも多くのものを失ったあの日。私たちは「生きること」の根源的な何かを否応なく問われてしまった。あまりにも辛く、あまりにも取り返しが付かない。失ってしまったものへの巨大な悲しみが癒えることはないのかもしれない。悟りすました坊さんが「諸行は無常である」「人生とは苦である」なんて東北の地で、言えるだろうか?
「(甚大な被害を被った、宮城県)本吉町には、津波で亡くなった人と、九死に一生を得た人しかいない。」と、ある人に聞いた。誇張ではあるけれど、ある意味では真実の重さを伝える言葉でもある。私自身、九死に一生を得た側の人間だ。そして全国で、全世界で「今、生きている」すべての人は多かれ少なかれ「九死に一生を得て」いると言っていいのではないだろうか?
あの震災で、多くの人が「生きること」を無条件に問われてしまった。震災以前はあえて問う必要がなかった問い。生きるってなんだ?生きてるってなんだ?生きていくってなんだ?自分は「ほんとうに生きて」いるのか?と。
(参考:過去記事)
「生きること」を決意した日
最近出会う若い子たちは、真摯に誠実に自分がどう生きたらいいかを問い、問いながら前へ進んでいる子たちが多い。少なくとも自分が20代30代の頃(バブル前後)のうわついた態度とはまるで違う。それは少なからず震災の影響がある。彼らの、何かが決定的に変わってしまったのだ。
それは敢えて言えば”「生きること」を決意した”、と言えるのではないだろうか。それまで世界一平和で世界一治安がよく世界一あ・うんで通じ合う国に暮らしていわば「日常」というルーティンに任せていてもなんとか「生きながらえる」事ができる。そんな日々が終わり、あるいはそんな夢から目を覚まし、ほんとうにどう生きるかは自分で感じ、考え、「生きなければならない」と分かったのかもしれない。
あなたの「いのちの灯火」を灯せ
この震災七回忌法要は、あらゆる「法要」の存在意義を問い直す機会だと思っている。それは私たちが震災によって「生きること」の意義を問い直させられたのと同価値なのだ。私たち僧侶が、何をもって「法要」とし、どんな態度で法要を勤めるのか。逃げずに、そこからまた始めなければならない。
私にとっては、もう答えは出ている。「ほんとうに生きること」を決意すること。それが法要の意義だ。それは「ご飯を食べること」「寝ること」「働くこと」も同義なのだ。
「ほんとうに生きる」とはなんだろう?そう問うことから「追悼」は始まり、「供養」はその意義を取り戻す。命灯会、と名付けられた法要で、私たちはたくさんのろうそくに火を灯し、その「場」を共有する。私もそこで、「ほんとうに生きること」の話をしようと思う。そしてその場に集う人は、「ほんとうに生きること」を言葉にし、共有し、確かめあい、励まし合う。そんな「場」になって欲しい。
あの日、私たちの胸の奥底に焼き付いた火種を、自分の手で取り出して、もう一度灯す。灯すのは、誰かのための灯火ではなく、「自分のいのちの灯火」なのだ。
(参考:過去記事)
Unlock yourself.
Unlock your light of soul.
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【 佐藤良規 】
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